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名古屋地方裁判所 昭和53年(ワ)3053号 判決

亡山崎惠美子訴訟承継人兼原告

山崎浩

原告

風間源樹

原告

風間久美

右三名訴訟代理人

高山光雄

加藤良夫

被告

吉田則明

右訴訟代理人

太田博之

後藤昭樹

立岡亘

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告山崎浩に対し金一八〇〇万円、原告風間源樹に対し金四五〇万円、原告風間久美に対し金四五〇万円及びこれに対するそれぞれ昭和五一年四月一〇日より右支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨。〈以下、省略〉

理由

一被告のデキサメサゾン投与について

1  〈証拠〉によれば次の事実を認めることができる。

(一)  昭和五一年二月二三日、武は右目の充血を訴えて、妻惠美子とともに被告医院を訪れた。被告は診療の結果角膜ヘルペス(疱疹)と診断したが、紅彩炎も認められた(昭和五一年二月二三日、武が右目の診療を受けるため妻惠美子とともに被告医院に赴いたこと、武はその際「右角膜ヘルペス」に罹患していたことは当事者間に争いがない。)。

(二)  武は、右二三日から同年三月一四日の間に、頻繁に被告医院に通院し、被告は、武に対し治療の目的でアトロピンを点眼したり、点眼薬としてIDU(抗ビールス剤)、システイン(ビールスの生成する酵素の阻害剤)、ノイチオンなどを投与したが、その際、同時に副腎皮質ホルモン剤デキサメサゾン(内服)を次のとおり武に投与した(被告が、右期間中に、武に対し点眼薬とともに副腎皮質ホルモン「デキサメサゾン」を投与したことは当事者間に争いがない。)。

(1) 昭和五一年二月二三日 0.5ミリグラムの一日六錠宛(一日三回)を六日分

(2) 同年三月一日 一日につき右同量を四日分

(3) 同月九日 一日につき右同量を四日分

(4) 同月一一日 0.5ミリグラムの一日一二錠宛(一日三回)を二日分

(5) 同月一二日 一日につき右同量を三日分

(三)(1)  武は、同年二月二三日、被告より投与をうけたデキサメサゾンを三、四日分飲んだが、胃の調子が不快で、気持も悪く食欲が衰えたので自主的に右薬を飲まないようにした。

(2)  それを知つた被告は、二回目のデキサメサゾン投与の際、惠美子に「きちんと飲むようにさせて下さい」と指示したため、武は再びデキサメサゾンを服用するようになつたが、それでも同年三月一四日の時点で三日分くらいの薬を残していた。

(3)  右一四日の診察の際、被告は、来院した武が、内服薬が三日分程残つているといつたので、内服するよう説得したところ、武は糖尿病が悪くなつたと答えたため、被告は直ちにデキサメサゾンの服用を中止するように指示した(従つて、この日以降は、武はデキサメサゾンの服用を止めたと推認できる。)。

承継前の原告山崎惠美子は、その本人尋問において、デキサメサゾンの服用中止は名古屋第一赤十字病院の平野潤三医師より指示されたのであり、被告から指示されたことはない旨供述するが、前記乙第二号証によれば、同月一六日平野医師に渡された被告作成の紹介書には「高血圧及び糖尿のあることを知りステロイド内服は三月一五日より中止した」旨の記載があり、証人平野潤三の証言によれば、同人は、武らにデキサメサゾンの服用中止を指示していないことが認められ、これらによれば右本人尋問の結果は信用できない。

(4)  被告は、それまでの治療にも拘らず、武の病変が悪化したため、平野医師に受診するように説得し、武は、同月一六日平野医師を訪ねて受診し、同医師は、抗ビールス剤としてIDUにかえてサイクロCを使用し、以後、同医師は、被告と協力して治療に当たり、同年四月六日には、武の角膜潰瘍はほぼ治療したが、角膜浮腫、混濁が残存した(同年三月一六日に武が被告の紹介で名古屋第一日赤病院眼科医の診察をうけたこと、同年四月六日には、武の角膜ヘルペスがほぼ治癒したことは当事者間に争いがない。)。

以上の事実が認められる。

2  右事実によれば、被告は、角膜ヘルペスを治療する目的で昭和五一年二月二三日から同年三月一二日にかけて五回に亘り合計七二ミリグラムのデキサメサゾンを武に投与したが、同月一四日以後は、武はデキサメサゾンは服用していないことが認められる。ただ右期間中、武はデキサメサゾンを服用してきたが、前記認定のように気持ちが悪くて食欲がなくなつたりして、自主的に薬を飲まない時期もあつたりしたことから、投与されたデキサメサゾンの服用量を明確に認定することはできないところである。

二因果関係について

1  次に、被告の治療上の義務違反の有無に先立ち、ステロイド剤の服用と武の死亡との因果関係について検討するに、〈証拠〉を綜合すると次の事実及び医学的知見が認められる。

(一)  武の死に至る経過

(1) 昭和五一年四月七日、武は、午前二時頃まで自宅で家族と談笑したのち就寝したが、同日午前五時三〇分頃、トイレへ行く途中倒れ、その一五分くらいのちには意識消失した。なお、倒れた後、武はタール便をしている。

(2) 同日午前六時三〇分頃、武は名古屋市立城北病院へ入院したが、入院時から昏睡状態にあり、また、死亡するまで消化管出血が続いた。そのため、武に対しては、輸血を含む輸液が多数回に亘り精力的に行なわれた。

(3) 武の担当医は、武が急激に意識喪失していることと、フスクローヌス、バビンスキーの各反応がみられるなどの神経学的な所見を総合して、脳血管障害とくに脳出血(脳血管障害の内には脳出血と脳血栓などがあるが、急激に意識がなくなつた場合には、脳出血である場合が多く、脳血栓とは一般的には考えにくい)を強く疑つたが右反応がいずれも典型的な現われ方をしていなかつたため症状名を断定するには至らなかつた。

(4) ところが、同日午前九時における武の空腹時の血糖値が五九〇ミリグラム・パー・デシリットルという異常な高値であることが判明したため、担当医は脳血管障害よりも糖尿病性昏睡の可能性が大きいと考え、インシュリンを投与し、血糖値をコントロールしようとした。そして、血糖値は正常に近い値に改善安定したが、武の昏睡は依然改善されず、同月一〇日午前五時三〇分死亡するに至つた。

(二)  武の死因について

(1) 武の死因につき、担当医は、血糖値が安定しても武の昏睡が改善されず、また神経学的な所見は変わつてこないので、糖尿病性昏睡は死因から除き、直接死因を脳出血、消化管出血と判断したことから、死亡に立会つた当直医がその旨の死亡診断書を作成した。

(2) しかし、消化管出血による失血死を直接の死因とすることは、武が、意識喪失後城北病院へ入院した直後行なわれた検査で死亡に至る程の貧血は認められていないし(赤血球数二七二万、ヘマトクリット二六パーセント)以後、輸血を含む輸液が精力的に行なわれており、それを上廻る消化管出血が持続していたことを示す症状、検査結果が認められていないことからして不自然である。

(3) また、被告は脳血管障害を武の死因であると主張するが、独立して死因となりうる脳血管障害があつたかどうかは断定できない。ただ、その可能性は次の諸点からしてあながち否定できない。

(ア) 本邦糖尿病患者の死因調査では約半数が血管障害を死因としており、中でも脳血管障害による死亡が他の血管障害による死亡より多いとされる。

(イ) 糖尿病患者の脳血管障害の発症、進展は糖尿病の発症年令、罹病期間と相関する。また脳血管障害は糖尿病者において非糖尿病者より早期かつ高度に進展しやすい。

(ウ) 高血圧の持続は脳血管障害の最も大きい危険因子であるが、武は診療録(乙第三号証、第四号証の一ないし四)にも明らかな通り、終始高血圧症が持続しており、その間の治療内容も高血圧に抑制に主眼がおかれていると判断できる(高血圧症の治療は、国立名古屋病院及び城北病院での糖尿病治療と併行して行なわれており、その間に降圧剤の投与が続いている)。従つて、脳血管障害の存在の可能性は少なくない。

(エ) 昭和四〇年四月一九日国立名古屋病院内科受診の折には既に視力障害、眼底出血のため眼科にて治療中であつたことが診療録に記載されており、当時既に網膜血管障害が存在していたことは確実である。網膜血管と脳血管の動脈硬化性病変は必ずしも平行して発症進展するとは限らないが、一般的には網膜血管の動脈硬化性病変の存否は脳動脈系の硬化性病変の存否を推測する有力な臨床的指標として重視されている。

(オ) 高脂血症(高コレステロール血症、高トリグリセリド血症)は動脈硬化症発症の危険因子の一つである。本件では国立名古屋病院内科外来通院中の昭和四二年より昭和四七年の間、高コレステロールが持続的に認められる。

右に加えて、脳出血は心身の過労によつて誘発されることがあり、特に肉体的労作時に突発することが多い。従つて本件が脳出血であつたとすれば、午前二時まで家族と談笑していたことが武の心身に過剰の負担を与え、脳出血の誘因になつた可能性も考えられる。

(4) このように考えた上で、医学的見地から記録された国立名古屋病院での診療録をはじめとする武の各診療録(乙第一、第二、第三号証、第四号証の一ないし四)に顕れた同人の病歴に基づいて検討しても、やはり武の死因を明確に確定することは不可能であり、その可能性としては脳血管障害、糖尿病性代謝異常、消化管出血を指摘できるにとどまるところである。しかも、いずれも独立した死因と断定するには困難があることから、強いて云えば、上記三病態が相互に悪影響を及ぼしつつ次第に脳機能の不可逆的障害を進展せしめ死亡に至らしめたと推定するのが相当である。

(三)  ステロイド剤投与の武への影響

(1) その服用量は必ずしも明確でないものの、武が副腎皮質ホルモン「デキサメサゾン」の投与をうけ、これを服用したことは前記認定のとおりである。ところが同剤はステロイド剤(グルココルチコイド)の一種であり、ステロイド剤には強力な抗炎症作用、免疫抑制作用と同時に種々の代謝作用(糖質作用、蛋白作用、電解質作用)を発揮する効能の反面その投与には次のような危険な副作用

(ア) 糖尿症の発症、誘発、増悪

(イ) 感染症の発症

(ウ) 消化管潰瘍の発生

等があるとされている。

(2) 血糖値の上昇について

(ア) 武が糖尿病に長期罹患していたことは確実である(昭和三四年頃より糖尿病といわれ、昭和四〇年四月より昭和四八年一〇月までは国立名古屋病院で、同月よりは市立城北病院で、それぞれ糖尿病の治療を受けていた。)。ただ、同人の糖尿病は前掲診療録に基づいて判断する限り比較的軽症であり、経口血糖降下剤(ラスチノン)によつて良好なコントロール下に維持されていたと認められる。

(イ) この情況でステロイド剤(デキサメサゾン)の投与を受けて血糖上昇を来したことは明らかである。

しかしながら、ステロイド剤投与以前に既に血糖のコントロールを乱す何らかの原因があつたこともまた確実である。即ち、武の血糖値は別紙血糖値表のとおり経過したところ、それによると、昭和五一年一月一二日までの糖尿病治療は適正であつたと考えられるが、同年二月一二日に至つて空腹時血糖値の上昇を来し(その原因は病歴から判断できない。)、次いで同年三月二日食後血糖値の、また同年四月一日に至つて空腹時血糖値の著しい上昇が認められるのであるが、ステロイド剤の投与が行なわれたのは同年二月二三日以降であることから、その投与以前において、既に何らかの原因に基づいて糖尿病状態の悪化を来しており、ステロイド剤の投与がそれを一挙に促進したと考えられるからである。従つて、血糖上昇の原因をステロイド剤投与のみに求めるのは妥当でない。

(ウ) なお、同年四月一日よりインシュリン治療が適切に行なわれたとすれば、血糖上昇は十分抑制可能であつた。しかし、本件の死因を高血糖にもとづく糖尿病性昏睡であつたと認めるべき証拠もない点からインシュリン投与によつて、時宜を得た血糖抑制が行なわれたとしてもそれが直ちに救命を意味するとはいえないところである。

(3) 消化管潰瘍について

(ア) 武が上部消化管潰瘍を予め有していたかどうかは不明である。ステロイドは強力な蛋白分解作用に基づいて消化管潰瘍を誘発し、かつ悪化せしめる薬剤であるが、本件において投与されたステロイド剤は前記一のとおり、特に大量ではなく、又、長期に亘るものではないのでこの投与によつて新たに消化管潰瘍が発生したかどうかは断定困難である。ただ既に消化管潰瘍が存在していたとすればステロイド剤投与によつて悪化した可能性は大きい。

(イ) なお、武は、ステロイド剤を服用してから胃障害を訴えていたが、その服用を中止してからは少なくとも自覚症状はなかつたし、昭和五一年三月二日城北病院での診療時にも自覚症状はなかつた。同年四月一日の診察において、武は心窩部痛を訴えているが、これが消化管潰瘍に基づくものである可能性はあるとしても、それであるとの断定は困難である。

(4) 脳血管障害について

脳血管障害に対するステロイド剤投与の影響については、長期に亘る同剤投与の場合にはその高脂血作用、高血糖作用、蛋白分解作用、電解質作用いずれをとつても血管障害の発症、進展に促進的に働き得る可能性が理論的に指摘されるにとどまり、それ以上の影響力の存在は明確にすることはできない。

(四)  消化管出血と脳血管障害の発症の前後関係

(1) 消化管出血による循環血液量の減少・ショックによる循環虚脱によつて、脳血液循環量の減少から脳内細小動脈特に動脈硬化性病変をもつ動脈系小血管に血流異常(緩速化、渦流)を来し血栓症を発生するが、なかんづく糖尿病患者の場合は、一般に血液凝固能亢進の傾向が高いため血栓症特に脳及び四肢の血栓症を発症しやすい。

更に、高度の高血糖に基づく脱水は、血液粘度をたかめ、またステロイド剤投与は、血液凝固能亢進を介して血栓症発症を助長することになる。

(2) 一方、脳卒中発作が急性胃潰瘍を誘発ないし悪化させ、しばしば死因となる程の消化管出血を招来することはよく知られた事実であり、また血糖降下剤、降圧剤、鎮痛消炎剤、ステロイド剤は胃潰瘍を誘発ないし悪化させる薬剤として知られている。

本件の場合、血糖降下剤、降圧剤を長期に亘つて服用しており、又短期間乍らステロイド剤を服用した事実、更に昭和五一年四月一日城北病院内科外来を受診した際心窩部痛を訴えていた事実に鑑みると、脳卒中発作発現以前に胃潰瘍を発症していた可能性は高い。従つて脳卒中発来とともに胃潰瘍が急性増悪を来したとも考えられる。

脳卒中後の胃潰瘍発生は、発作後六時間以内に約三分の一のケースにみられるとされていることからこの点からも、右推論は成立つところである。

(3) 右(1)(2)は前後関係が全く相反する想定であるが、本件の場合、いずれについてもその発生の可能性は高く、証拠上その前後関係を何れかに断定する根拠は得られないところである。

以上の事実ないし医学的知見が認められる。

2  そこで、右の認定事実ないし医学的知見を前提として、考察するに、武の死因としては、前記のとおり脳血管障害、糖尿病性代謝異常、消化管出血が相互に悪影響を及ぼしつつ次第に脳機能の不可逆的障害を進展せしめ死亡に至らしめたと推定できるので、右各病態に対して被告のステロイド剤投与がどの程度影響を与えたかについて以下検討する。

(一)  糖尿病の悪化特に血糖値の上昇について

武の血糖値は被告のステロイド剤投与以前に何らかの原因に基づいて上昇していたこと、従つて、それが、ステロイド剤投与のみによつて上昇したわけではないが、被告のステロイド剤投与によつて、一挙に促進したと考えられることは前記のとおりである。しかし、武に高血糖が認められるとしても、それによる糖尿病性昏睡は同人には認められないのであり、更に、城北病院入院後、武の血糖値が安定しても、同人の昏睡の改善がみられないなどのため、同病院では、死亡診断書に武の直接死因として脳出血と消化管出血のみを掲げていることに照せば、被告のステロイド剤投与により、武の血糖値上昇が一挙に促進され、同人の糖尿病の病状がより悪化し、そのため同人の全身状態も悪化したことは認められるとしても、それが、武の死亡に与えた直接の影響は、他の脳血管障害、消化管出血に比べ、それほど強くはないと考えられる。

(二)  消化管出血について

(1) 武が城北病院入院時から死亡時まで消化管出血が続いていたことは明らかであるが、それによる出血死は考えられないこと、右出血が脳血管障害が発生する以前から消化管潰瘍を武が有していて、それが悪化した結果生じたものであるのか、脳卒中発作により急性胃潰瘍を誘発ないしは悪化させられた結果生じたものであるのか断定はできないことは前記のとおりであるところ、仮に、脳血管障害発症以前に武が大量の消化管出血を起こしていたとしても、それが被告のステロイド剤投与に基づくものであることについては一応の可能性が認められるのみで、以下の事情もあり、それを断定することはできない。即ち、

(ア) ステロイド剤の外、武が長期に亘つて服用していた血糖降下剤、降圧剤も胃潰瘍の原因となりうる。

(イ) 被告が投与した程度のステロイド剤によつて、新たに消化管潰瘍が発生したかどうか断定困難である。ただ既に消化管潰瘍が存在していたとすれば、これにより悪化した可能性が大きいに過ぎない。

(2) 事実ステロイド剤投与後の経過をみても、武は、昭和五一年二月二三日から三、四日間、ステロイド剤を服用したときは、食欲不振、胃の調子が悪いと訴えていたが服用を自発的に止めたのちの同年三月二日には自覚症状はなく、心窩部痛も訴えていなかつた。その後二週間に亘り、ステロイド剤を服用した(実際の服用量ははつきりしない)が、同月一四日には服用を中止しており、中止してからは少なくとも自覚症状はなかつた。ところがそれから約二週間後の同年四月一日になつて心窩部痛を訴え、更にその約一週間後に大量の消化管出血を起こしているのであるから、既に消化管潰瘍が生じていたとしても、それがステロイド剤投与により急速に増悪し、右消化管出血を生じさせたとはにわかに断定しがたいのである。

(三)  脳血管障害について

(1) 長期に亘るステロイド剤投与の場合においてすら、脳血管障害の発症、進展に促進的に働きうる可能性が理論的に指摘されているにとどまることは前記のとおりであるから、本件程度のステロイド剤投与と脳血管障害との間に直接の関連性は認めることはできない。

(2) 武は、長期に亘り、高血圧症、糖尿病に罹患しており、更に、脳動脈系の硬化性病変の存在も推測され、このような患者には独立して死因となりうる脳血管障害が存在した可能性が指摘できるし、更に、武の脳血管障害は、脳出血の可能性が大きいが、昭和五一年四月七日午前二時まで同人が談笑していたことが脳出血の誘因になつた可能性も否定できないのである。

従つて、武は被告のステロイド剤投与とは直接の関連を持たずに脳血管障害を起こし、それに基づき前述のとおり消化管出血を引き起こした可能性が充分認められるところである。

3 以上のとおりであるから、被告のステロイド剤の投与に基づき消化管潰瘍が生じ、又はそれが悪化し、そのため消化管出血が発生し、更に、それに基因して脳血管障害が生じたことに加え、ステロイド剤投与により高血糖が促進した結果による糖尿病の悪化も手伝つて、武が死亡した可能性は一応認められるのであるが、その一方で、ステロイド剤とは直接の関連もなく、武がこれまで長期に亘つて罹患していた病疾に加え、昭和五一年四月七日当時の武の心身状態が重なつて脳血管障害が生じ、それに基因して急性胃潰瘍を誘発ないしは悪化させ、悪化していた糖尿病も加わつて武が死亡した可能性も充分認められ、いずれがより蓋然性が高いかはにわかに断定できないところである。

そして、後者の場合には、血糖値の上昇にステロイド剤が寄与したことは認められるとしても、前記のとおり、右による糖尿病の悪化、糖尿病性代謝異常が、武の死亡に直接的、中心的に寄与したとは認められないから、これのみでステロイド剤投与との間に因果関係を認めることはできない。しかも、仮に武の入院時における消化管出血が、脳血管障害発症以前に生じていても、それが果して被告のステロイド剤投与に基因するかどうかの疑問は依然払拭できないところである。

結局、これらの諸点を綜合すれば、被告の武に対するデキサメサゾン投与により武が死亡したとの高度の蓋然性については消極に解さざるをえず、右投与と武の死亡との法的因果関係を肯定することは困難であるとの結論に達するものである。

なお、原告らは、挙証責任の公平な分配の見地から、患者側で医師の不完全履行(過失)行為と死亡とが結びつく可能性を主張立証した以上、医師側において、両者が全く無関係であつたことを立証しない限り因果関係を認めるべきであると主張する。なるほど、医療過誤訴訟においては、被害発生に至る過程が複雑であり、その解明に高度に専門的科学的知識が必要である場合が少なくないから、それに応じて被害者側の立証の程度については、間接反証等の活用によりその軽減をはかるべき場合が認められるが、その場合でも、挙証責任それ自体はやはり被害救済を求めている患者側にあるというべきであり、その場合、被害者側の立証は、単なる可能性では足りず、少なくとも、経験則に照らし、通常人において疑いを差し挾まない程度に真実性の確信を持ちうるものでなければならないと解すべきである。従つて原告の主張は採用できない。

三以上のとおり、原告らの主張する被告の不完全履行(過失)行為と武の死亡との間に因果関係が認められないから、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求は理由がないからこれを失当として棄却し、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(宮本増 森本翅充 彦坂孝孔)

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